これはイギリスのユースワーカーや研究者で構成される民間団体In Defence of Youth Work(ユースワークを守る)が、全国組織の労働組合(UNISON とUNITE)の協力を得て、2012年に刊行した『This is Youth Work(これがユースワークだ)』に掲載された「Surviving, learning and growing: The youth centre as sanctuary」(34ページ)の本研究会による日本語訳です。
同書には12のユースワークストーリーが掲載されていますが、それらは「Storytelling Workshop」を重ねながら作成されたもので、特定の事実そのものではありませんが、複数の事実をもとに作られています。
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私は、思春期の大半をアルコール中毒と闘う親と共に過ごした。両親のことは今も愛しているし、困難に直面しながらも彼らなりに最善を尽くしてくれたと思っている。ただ両親は日常的な家事など担うことはできなかったので、私は小さい頃から金銭管理や買い物などの家事を行っていた。そしてこのことによって、今現在の若者総合支援サービス(Integrated Youth Support Sservice)の一団体から注目されるようになった。
次第に学校に行かなくなった。当時自分のなかで、教育は最も優先順位が低かった。なぜなら14歳の私は、家庭を維持することに、そして両親の中毒に対処することにより気を取られていたからだ。教育や福祉の担当者はこの状況に全く気がつかず、一方私も、彼らや他の誰に対しても助けを求めることはしなかった。親戚に対してまでも、本当に長いあいだ隠していた。
後に、私は今で言う反社会的行動を行うようになり、警察とも関わるようになった。家庭の実態を隠し続けるなか、警察の取調べの場には、担当ソーシャルワーカーや親戚が「見本とすべき大人」として立ち会った。私は、準備できていないことや望んでいないことをやらせようとするこのような大人からのプレッシャーを常に感じていた。ただ単純に彼らのことを信頼していなかった。振り返ると、あの当時はあらゆる公的支援に頼ろうとせず、自分だけで物事を解決しようとしていたことに気がつく。また今となっては、不登校になったことは自分なりの対処方だったと理解している。特に、学校で受けていたいじめに対処するために。
誰にも頼ろうと思えず路頭に迷っていたちょうどその頃、出張型ユースワークのチーム(1)と初めて出会った。友人と近くのサッカー場で焚き火をしようとしていた時だった。ワーカーたちは、「どうも」と言って身分証を見せ、その火を消そうとした。我々はその場から笑って走り去る際、彼らに向かって、ただ子どもと話したいだけのおかしな奴かと茶化した。それでも彼らは足を運び続け、ついには地域のユースセンターに来ないかと誘ってきた。私はしぶしぶ、多少不安になりながらも受け入れた。健康にまつわるワークショップに参加し、健康診断も受けたけれど、参加した理由はその後に出てくるフルーツカクテルを飲みたかったからだ。
家族の実情を打ち明けるまでには長い時間を要したが、センターはネガティブにならざるを得ない家庭環境から私を引き離し、静かで居心地の良い空間を提供してくれた。壁には性やアルコールについての注意喚起ポスターが貼られ、部屋中央にはいつも私が座る丸いテーブルがある。スタッフチームのメンバーなど、親近感を覚え、目指してみたいと思えるような多くの大人との出会いがあった。また友人やセンターのスタッフと一緒に、海に行ったりサッカーをしたりバイクに乗ったりするなど、たくさんの楽しい時間を一緒に過ごした。これらは、ほかの人たちから見ればごく当たり前のことに見えるかもしれない。でも私にとってはそうではなかった。それらの機会やその場のみんなから受け入れられているという感覚は家で経験したことのないことだった。私にとってこの様な時間は、ただいたずらっ子たちが海に連れて行ってもらえてフライドポテトをもらうという以上の意味があった。これら活動を通じてセンターやスタッフとの関係が深まることで、人生に関わるような大事な決断についても、センターに行けば相談できると思えるようになっていった。
ユースワーカーへの相談は、ユースセンターだけに限られなかった。ユースセンターそのものは中央通りにある変哲のない事務所みたいなところで、外見は周辺のリサイクルショップやファストフード店と何ら変わりはない。ワーカーと会うのはセンターよりもデタッチドワークの途中や地元のショップ、カフェが主で、会うとワーカーは自腹でフライドポテトを買ってくれた。これまで私に関わってきた福祉などほかのソーシャルワーカーを批判するつもりはない。ただここで強調しておきたいのは、ユースワーカーは私がプログラムに参加することで満足しないで、私自身の人生に真剣に関心を示してくれ、それが私にとってどれだけ重要であったか、ということだ。
家庭状況が相変わらず大変ななかで、中学校修了統一試験(2)が近づくにつれ、私はいい点が取れるだろうかと不安を感じ始めていた。相変わらず家庭は学習するには相応しくない環境だったが、センターでは部屋を勉強に使っていいといってくれた。しかもそこではフレンドリーなユースワーカーのサポート付きだった。
その後私は、見習いを経て正規職につながることができる職業訓練コースに進んだ。そこに進むときには、ワーカーが推薦状を書いてくれた。でも正規職に移るのが難しそうと感じていた私は、継続してユースセンターのスタッフに相談にのってもらっていた。主な相談内容は、犯罪に関わっている昔からの友人たちからのプレッシャーだった。「その友人たちと距離を置くことは難しい」とセンタースタッフに伝えると、大変だった時と比べると今はとても良い状況にいるのだから、目の前のことに集中しなさいと真剣に説得してくれた。今となっては、当時のスタッフは私に何かをやり遂げさせよう、達成感を持たせようとしていたとわかる。それは、当時の私にとっても、自分の行いは間違っていないのだという新しい希望を実感させてくれていた。
この頃、友人の何人かが、法を犯した結果このままでは裁判所に出廷したり、刑務所送りになるかもしれないということから、少年犯罪対策プログラムなどに参加するためセンターに来るようになった。私はスタッフに、過去に自分たちにやってくれたようなサッカーやバイクなどのイベントを企画してくれないかと頼んでみた。彼らの返答は、「もしやりたいならば、自分たちで企画してしっかりやり遂げよ」というものだった。イベントは実現には至らなかったが、この経験を通じて、ベストを尽くしている人であれば、センターは誰にでもチャンスを与えていくのだと気づくことができた。
18歳の時、家族との死別があり、深く傷ついた。再び、センターは私に保護を提供してくれた。彼らは皆、哀悼の意を表してくれたが、最も強く印象に残ったのは、同じ年頃にやはり家族を失ったユースワーカー自身の話だった。深い悲しみからの出口はとてつもなく暗く複雑だったが、その会話で、他の誰かも同じ状況にいることに気づかされ、救われた。その月、私は初めて休暇をとる予定だったが、葬式費用を払ったあとで使えるお金は残っていなかった。センターのスタッフは、私のためにカンパを募ってくれた。
休暇から戻ったある日、地元の工場での仕事の後にセンターに立ち寄ると、出張型ユースワークのチームが街に出かけようと準備していた。彼らは、突如現れた私にいつもと変わらず時間を割き、仕事はどうかと話しかけて、関心を寄せてくれた。そしてこの時であった。私がその後の人生に影響を及ぼす重要な質問をしたのは。
「何をやっているの?どんな仕事なの?」
私が聞いたのは「どうしたらユースワーカーになれるのか?」ということであった。スタッフは、地域のユースワーク初級レベルのコースに申し込むのを手伝ってくれた。入学が決まりその初日の夜の入学式では、私はグループで一番若い受講生として、信じられないほど緊張し、誰とも喋れずにいた。すると、その式の最中に、突如ノックする音が聞こえ振り向くと、あの出張型ユースワークのチームメンバーがドアから顔を覗かせ、私にエールを送ってくれたのだ。式の関係者に煙たがられながらも励ましてくれた。それは今でも最高の思い出だ。この初級コースから始めて、私は大学を卒業し、ユースワークの学位を取得し、そして正式にユースワーカーとなり、その後、修士コースに進学するまでに至っている。
ある日、カフェでベテランのユースワーカー二人と、私がユースワーカーになるまでの過程を振返っていた。ユースワーカーになった私に彼らがくれたアドバイスは明快だった。「今後様々なユースワーカーが彼らなりの実践を行うのを目にすると思うが、君は自分らしい関わりをつくっていけばいい。君なら、十分やれる。」
注
(1) 出張型ユースワーク(detached youth work)とは、自分からはユースセンターに寄りつかない若者たちと関係を築き、一緒に活動するために、街中の若者たちのたまり場にワーカーがチームを組んで出向く取り組み。接触を繰り返し試みながら時間をかけて信頼関係を作り出していく。
(2) 中学校修了統一試験(GCSE)は義務教育終了時(16歳)に受ける試験で、その成績がその後の進路や資格取得などに大きく影響する。